お金を使うことも、ひとつの愛

 

こんにちは。しばらくぶりのみなみです。オリンピックも始まって感染者数も爆発してますが私は元気です。

 

今回は、ユリイカの男性アイドル特集から、『「推す」という隘路とその論理―愛について』を読んで、簡単なまとめと感想を書き残しておきます。隘路とか使ってるの初めて見たよ…

 

ここでは「推すこと」について、

①規範的性愛とその関係
②代替不可能性をめぐる問題
③「推し」とファンの関係のあり方
④道具化・客体化(消費)をめぐる問題
⑤金銭の介在
という5点から考え論じられています。

もう難しい単語ばっかりで意味わかんないですね。

今回はそれぞれのポイントから見た「推すこと」について簡単にまとめて感じたことを記そうと思います。

 

はじめに、「推す」ことを『ひとつの「愛」の形としてとらえる』という仕方で、「推す」という概念について考えます。

ここでの議論は「推す」ことについての考察が、われわれの愛や親密な関係のありようについて興味深い仕方で光を当ててくれる、と論じられています。

論文だから当たり前なのかもしれないけど、難しい書き方するよね〜(笑)。推すことについて考えると、他の多様な愛のかたちについても光を当てて考えられるってことだと思いますたぶん。

 

まずは、規範的性愛とその関係について。


「推している」「ファンである」ということは、「恋愛感情がある」「付き合いたい」「結婚したい」とイコールであると受け取られがちですが、必ずしもそうとは限りません。

 

『リア恋』という言葉が存在します。これは「推し」に恋愛感情を抱いていて、付き合いたいと思っているファンを指す言葉です。

このような言葉が生まれているということは、基本的に「推し」は「リアル」な「恋」の対象ではないという意味が表されています。

 

友人関係や恋人関係が形成されていく場面においても、自分の思いにある程度の説明をつけて、その対象に態度や行為をとっていくと思います。

この人好きだな〜と思ったら、相手にも好まれたいから優しくするとか、好かれるような態度を取るよね。でもその「好かれるような態度」ひとつ取っても、相手によって色々考えなきゃいけないことあるよねってことです。

 

これが人々の「愛」に関する在り方であって、それは誰かを「推す」と決める場合でも変わらないように思えます。

つまり「推す」ことは性や愛の多様性のひとつであり、個人の自由なんだと論じられています。

 

たしかに〜(笑)。自分は推しが何人かいるからわかることだと思うんだけど、前提として、どの人も大好きですよ。まずね。この推しとは付き合いたいけど、この推しは早く結婚してほしい。みたいなのあるから一般的な「愛」と同じように多様ですよね。

 

次に、代替不可能性をめぐる問題について。そのまんまですが、代替が不可能だよね〜って話です。

 

「推す」という言葉は、拮抗する実力の持ち主がたくさんいるうちの一人として、自分はこの人を「推す」という形で使われることが一般的です。グループには歌やダンスが上手でルックスも良い人は何人もいるけど、その中から自分はこの人を選ぶよ!ってことです。

 

“相手は決して替えがきかないもののように思われるが、その理由付けは容易ではない”という点は、「推す」ことだけでなく、「愛」一般に共通しています。もうこの点だけで、「推す」ことは「愛する」ことに属されると肯定できるはずです。

典型的な恋人関係をとってみても「この人しかいない!」「この人がいないと生きていけない!」くらいのことを思うことがあるかもしれないけど、それは何故なの?という答えは簡単に出せないと思います。「推す」こともまた、「推しが居なくなるなんて考えられない!」「この人の代わりなんていない!」と思うけど、その理由も簡単には示せないと思います。この共通した点を見て、筆者は「愛」と言えると論じています。

 

3つ目として、「推し」とファンの関係のあり方について。


恋人や友人との親しい人間関係として典型的なものと、アイドルとファンの関係とは、様々な点で異なっています。アイドルとファンの関係は一対多であって、相互的なやり取りも限られています。恋人や友人とは会って話したり、離れていてもLINEや通話をすることが容易に出来るけど、アイドルとファンはそうもいきません。

このような点でアイドルとファンの関係の特異さを感じます。

 

アイドルとファンの関係には、アイドルのパーソナルな部分が、アイドルとファンの間で共通認識となっていて、定期的にライブという場を共有しているという状況があります。好きな食べ物を知っていたり、どういう性格なのかをなんとなくわかっていたり…という私的な部分が共有され、ライブという公的な空間を共有している状況があります。

このような、親密な感情や時間を共有しているという人間関係が、他に全く存在しなかったということはないかもしれません。ですが、このアイドルとファンの関係は、社会や経済・技術の状況を前提として登場した、独特な形態の人間関係の一種としてとらえることができます。

 

今で言えば、テレビ番組や雑誌、ラジオ、SNSなどの様々なメディア媒体を介して、アイドルと親密な感情を共有しやすくなっています。また、定期的にライブが開催されることも社会や経済の状況を前提とした活動です。

会って話す、連絡を取り合う、などが容易に出来る典型的な人間関係と大きく異なる部分は、このように社会や経済の状況が前提にあって親密になる関係であるという部分だと思います。

 

アイドルとファンの関係について考えることはたくさんあります。

ここでは、2018年にシンガーソングライターの有坂愛海さんが亡くなったファンの追悼ライブを行ったことが話題になったと取り上げられています。有坂さんが、10年以上自分を推していた男性ファンが姿を見せなくなったことを不審に思い、調べたところ亡くなっていたことを知り追悼ライブを行ったそうです。

毎日のように、家族よりも会っていて同じ時間を過ごしていたのに、連絡先すら知らないというアーティストとファンの関係について、人間関係として不自然さを感じてしまいました。この場合、コミュニケーションを一対一でとることも多く、お互いのパーソナルな部分もよく知っていたはずなのに連絡先も知らないという、このような関係ならではの特殊さを感じました。

 

4つ目は、道具化・客体化(消費)をめぐる問題。
ここでは、「推す」ことがアイドルその人自身のためではなくて、ファンである自分たちの欲望を満たすために、その人に肉体的・感情的な労働を強いて消耗させているといった意味合いの「消費」という言葉について考えています。

この「消費」という言葉、オタクからしてもアイドルからしてもあまり気持ちの良くない言葉だと思うのですが、市場としてはこの表現が一番適切なのかな〜…?あまり良い気分ではないですね、オタクなので。

 

「推し」とファンの関係が単に消費することで成り立っているのであれば、それは愛情関係であるとは言い難いです。

この関係は常に「消費」をするだけの関係ではないように思えます。典型的な人間関係では、相手に思いやりを持って接し、関係を深めていくことが多いと思います。こういう、お互いが相手のためを考えて行動してやりとりを重ねていくということが、アイドルとファンのこの関係においても可能です。

これは愛情関係を築いていくことが可能な関係といえる理由になるのではないか、と論じられています。

 

前にも述べている通り、オタクの間には『リア恋』という言葉が存在するくらいです。そりゃリアルに恋してるんだから、自分の欲望のために推しに肉体的・感情的な労働を強いて、欲望を消耗させることもあるかもしれません。でも、推しは推しなので、好きなので、相手のことを思って、嫌なことはしたくないし嬉しいことは出来たら良い気持ちだなぁと思うと思います。

アイドルって人気商売だし、人生そのもの、その人自身が売り物であるわけだから、消費されることは仕方のないことなのかもなぁ。と、思う一方で、やっぱりアイドルも一人の人間なんだから思いやりをもって接するべきだなと、すごく思います。

前髪ありの方が好き〜!短髪の方が好き〜!髪黒い方がよかったな…。髪早く切ってくれ…!センターパートやめてくれ!とか、髪の毛のことひとつとっても、アイドルに対して不満や欲望を持ってぶつけることがある(できる)と思います。でも別に最終的には、「本人のしたいようにしてくれればいいよ、まあ私はこっちが好きだけどね!」くらいの感じになると思うんですよ。消費対象だからどうしても自分の好きなように成ってほしいと願ってしまうこともあるけどね。

愛ってそういうことですよねきっとね。知らんけどほんとに。

 

最後に、金銭の介在について!やってきましたよ皆さん…金銭の介在について…やだね〜…(笑)誰もが目を逸らしたくなることですけども…。


ここでは、「推す」ことを「愛」と見る考え方に対するありがちな疑義として、「推し」とファンの関係に金銭の授受があるということが挙げられています。この点に「愛」にふさわしくない不純さを感じる人も少なくないはずです。

けれど、大量のCDを購入して握手券を得ることについて考えても、「お金を使うこと」をファンができる一番の応援として、最善の選択しとして、選び取らざるを得ない状況にあると考えられます。

CDの売り上げを伸ばすためにも、推しの人気を証明するためにも、多くの人に名を知ってもらうためにも、どうしても金銭が介在します。「お金を使うこと」が応援において最善のスタイルになることは間違いないと思います。

この点から、“相手のためになることを考え抜き選択している態度自体は「愛」と呼べる”と論じられています。

 

今は「会える」形式をとっているアイドルも多く、握手会などの接触イベントで話すことや、オンラインミーグリと呼ばれるビデオ通話のような企画、SNSでのコメントやメッセージでのやりとりなど、一対一でコミュニケーションをとれることが多くあります。

また、ライブでもパフォーマンスを見せるアイドルとペンライトやうちわを持って応援するファンでは、ある意味でコミュニケーションをとれていると思います。このような金銭の授受はあるものの、時間や感情を共有することで互いのことを思い行動していると考えられると思います。つまり上に従うと、愛情と言えるということです。

 

おわりに、筆者は「愛」について、“人々が価値を見出す人間関係には様々な形があり、それぞれ違っている。他の誰かにとって大事な何かがあるという可能性を認識すべきであり、「愛の形は星の数ほどある」というごく当たり前の事実を伝えたい”と記しています。

 

ここまで書いた全てのことを踏まえて考えると、アイドルとファンの関係は「愛」そのものといえるのではないかと私は思います。もう既に私はオタクなので「愛」そのものなのは分かり切ってることですが、論理的に説明するのは難しいものですね。

誰が誰を好きになっても、それがどんな愛のかたちでも、誰も口出しできるようなことではないと思うし、そこに互いを思う気持ちがあればなんでもいいと思うんですよね〜。

だからアイドルとファンの関係は「こうであるべきだ」と決めつけてしまうのではなく、愛情関係の一種と考え受け入れていくことが大切なのかなと!そういう結論で締めくくりたいと思います(笑)。

 

難しい単語ばっかりだし、結局何言ってるかわかんないし、まとまらないし、読みにくくてすみません。ここまで読んでくれた人ありがとう。好きです。これも愛。

 

う〜ん、まあよくわかんないけど、好きなら好きでそれでいいんじゃない?愛のかたちはそれぞれでいいんだよ!みんなも自分なりに推しのこと大切に推していこうね!って話でした多分。

 

明日は某9人組ミクスチャーユニットのライブなんだ〜。楽しみすぎて眠れないな。明日は自分なりに愛をぶつけに行ってきます!それでは。