アイドル育成ゲーム?

 

こんにちは。とっても久しぶりのみなみです。卒論を書き始めたり資格の勉強をしなきゃいけなかったりと、やること山積みのくせにTikTokを見て一日を無駄にする日々を送っています。

そんな私が書く今回のテーマは「かわいいVS美しい」と「コンテンツとしてのアイドル」の二本立てです!

今回も『アイドル国富論』の第二章「アイドルの消費論」を読んでの感想と共に考えていきたいと思います。それではスタート!

 

ここでは産業構造論では説明不可能なものとして残された「アイドル」を歓迎した消費市場の心理について論じられています。

 

最初は「かわいいVS美しい」

 

アイドルを見て思う「かわいい」という言葉について。

容姿における「実力」である「美しい」という言葉との対比においてアイドルの特徴といえば「かわいい」という言葉です。

そりゃ顔面が美しいアイドルもいれば、所作が美しいアイドルもいて、歌声とかパフォーマンスが美しいアイドルもいるかと思いますが、圧倒的にアイドルに使われる言葉は「かわいい」だと思います。

 

「美しい顔」について、美学の世界においては二つの有力説があります。「平均顔」説と「黄金比」説。どちらにも共通しているのが「美しい」には一つのプロトタイプがあるということです。

それに対して、様々なアンバランスな特徴がある「かわいい顔」は、美のプロトタイプからの逸脱を意味しています。

完全であることを志向する「美しい」と対比して、「かわいい」が不完全なものを指示しているといえます。

 

そして、「かわいい」に対して抱いているイメージアンケート(カッコ内は「美しい」についてのイメージ)は、以下のようになっています。

近寄りやすい(近寄り難い)

子供っぽい(大人の成熟)

日常的(現実から離れたところにある)

不完全なところがある(完璧で手のつけようがない)

自分が愛することがまだ可能だと思える(愛せる・愛せないと無関係に感動的なものとして存在している)

 

以上の、かわいいと美しいの対比に関して筆者は、“ここから、「美しい」はしばしば触れることの禁忌と不可能性と結びついているが、「かわいい」は人として触れたい、庇護してあげたいという欲求を引き起こす。” と論じています。

 

なんだか「かわいい〜😭かわいい〜😭」と毎日のように発してるオタクからすると耳を塞ぎたくなるようなことを論じられてますね…

「かわいい😭🥰」と思うことはただただ愛おしい、愛でたい、みたいな気持ちだと思ってたけどそれを生々しく表現すると「庇護したい」みたいになっちゃうんですね。つらい。いや、つらい(笑)。

けどまあ間違ってないなと思います。不完全なところもいい!応援したい!一生つらい思いなんてせずに暮らしてほしい!この子の周りが平和でありますように…と(まではいかなくても)思うことは「庇護したい」という表現にもなるのかな。そんな言い方しないでよ…ぐすん…みたいになるけどねこちとら。

 

そして、そんな「かわいい」の話と少し繋がるお話が続きます。

ここから「コンテンツとしてのアイドル」です。

 

昔から、消費社会の進展や生活の多様化といった時代の環境の中での「仲間」の形成は、他愛もないコミュニケーションから始まっていました。

ここで最も使いやすいのがマスメディア、特にテレビが提供する娯楽コンテンツの話で「アイドル」はマスコミが提供する中でも有用なもののひとつだったと考えられています。

 

昔からアイドルは、仲間内でコミュニケーションを取る上でちょうどいいコンテンツだったってことですね。テレビに出てるから色んな人と共通の話が出来る様になるし、出てないアイドルが居たとしてもそれはそれで話になるし、昔から便利なツールだったんだなぁ。

そしてそんなコミュニケーションから「仲間」との「ゲーム」が生み出されていきました。

ちょっとここから、推しがいる方は当てはまるかな〜って考えながら見てみてください。全部で3つの段階があります。

 

①見出すゲーム

「誰が売れるか」を人よりも早く見つけるというゲーム。多数の関心対象になるものを早く見出すことができることが、社会的能力として認められるようになったことにも対応している。

“単にテレビ画面の上で展開される内容を追うだけでなく、自分の目利き力で誰が売れるかを判断するゲームが成立し得た”

 

ここで、社会的なコミュニティに属している人たちは「誰が売れるか」を人よりも早く見つけることで自分の目利き力や、多数の関心対象になるものをいち早く見出すことができるんだ!という社会的能力を測ることができたんじゃないかなと思います。

 

②支えるゲーム

ベストテン番組に何通もハガキ投票をするような明示的にだれかを応援することから生じる、アイドルを自分が「支える」という実感、ファンの間での共感を楽しむ行為一般を指す。

「選ぶ」という行為で消費者自身が主役になる感覚の延長上にある。消費者でありながら「人気アイドル」の生産者になった感覚を味わうということもできる。

 

“同じアイドルを好きな者どうしの「仲間」形成という最も単純な意味を持つ以外に、他の個人やグループとどちらの推すアイドルがよりいい成績を残すかという競争のゲームにも転用が可能”

“自分が見出したアイドル(の卵)をトップアイドルにするというゲームだと考えれば「見出すゲーム」の第二段階ともいえる。”

 

消費者でありながら「人気アイドル」の生産者(錯覚)になることができ、どちらの推すアイドルがよりいい成績を残すかという競争にもなるということで、アイドルを駒にして仲間内で競争していたとも考えられます。

 

③育てるゲーム

アイドルは若年の素人であるがゆえに、成長という名の変化を不可避的に遂げていく。これを見守るファンの視点は、自分がアイドルよりも「上」であるという幻想の中で、単に「支持する」というものを超えて、アイドルを指導する気分になっていく。

 

“ファンとしての視線と、批評家としての視線が交わるところに、この「育てるゲーム」が発生します。そしてこれは「支持するゲーム」の延長であると同時に、この「批評家の視線」の発生が「見出すゲーム」の基盤ともなっているという相互関係にあるわけです。”

 

自分がアイドルよりも「上」であるという気持ちで支持しているからこそ生まれる「批評家の視線」から、自分がアイドルを指導していると錯覚して楽しんでいるんだと思います。

 

 

……つらい(頭抱え)そんな言い方しなくたっていいじゃん!!!(自分に重ねてこの文章を読み返したオタクの嘆き)

 

でも冷静になって考えると、「強すぎる魅力は支持する気にもならない」「自分が支えてあげなくてはと思わないと!」ということから、不完全で未熟で身近な「かわいい」アイドルだからこの3つのゲームは成り立つんだろうな。

 

“だからこそ、アイドルは「かわいい」ものでなくてはいけないのです。”

この筆者の言葉が胸に響きます…。

 

現に、最近もオーディション番組から結成されてデビューしたグループがあったと思います。101人の候補生の中からルックスや歌・ダンス、テレビ放送や配信での練習生の合宿風景とかレベル分けテストを見て、国民が投票し、多くの投票を受けたメンバーがデビューできるやつです。みんな知ってるアレです。

 

いやもうほんとはこんな論理立てて考えたくないけどさ、

・101人の中から自分の推しを決める

⋯①見出すゲーム

・毎日推しに投票する

⋯②支えるゲーム

・デビューしてから様々な形で応援する

⋯③育てるゲーム

ってちゃんとこういう風になってるんだなと気付きました。

 

1コンテンツとして、こちら側が消費者として、あっち側は消費対象として見たらそりゃゲームなのかもしれないなってたしかに思うけど、わたしは全然ゲームだと思ってないし多分わたしの周りのみんなも思ってないと思うな〜!

自分の中では娯楽だからコンテンツとしてアイドルを捉えてるかもしれないけど、いくら消費対象になるエンターテイメント界のアイドルだとしてもアイドルも人間だからね〜。ちょっと引っかかる部分はある…けど消費論的にこういう書き方するのも、論理付けるのもアイドルが存在し続けるために必要なものなんだと思いました。

 

しかもこちら(消費者)側はなんかな〜って思ってるかもしれないけど、アイドル運営側は会社であって商売であるので、こういうゲームに乗っ取った戦略を取ったりとか、応援させたい!って思わせるアイドルの卵を意図的に活動させてたりするんだろうなとも思います。

戦略立てて勝ったもん勝ちだよね!

 

推しにはちゃんと人間としての権利があってほしいなとも、大人たちちゃんと守っててくれよとも思うな〜っていう本題とはあんまり関係ない話で締めます(笑)。

 

ここまで読んでくれてありがとうございました!そろそろ卒論の中間発表あるんだけど無理すぎて無理です。頑張ります。みんなも頑張ろう!それでは次回までさよなら!